記事: ハイカー根津のHIKER'S DELIGHT Vol.8「日本にロングトレイルは必要か?(後編)」
ハイカー根津のHIKER'S DELIGHT Vol.8「日本にロングトレイルは必要か?(後編)」


前編では、ロングトレイルの成立史を紐解き、ロングトレイルが単なる長い道ではなく、アメリカ固有の文化として育まれてきたものであることを書いた。
「だったら、日本風にアレンジしたロングトレイルを作ればいいじゃないか」。こう思う人もいるだろう。
それはもっともな意見だと思う。実際、そうした試みは、すでに日本各地で行なわれている。ただし、それがロングトレイルと呼べるものになるかどうかは、また別の話だ。
この後編では、まず現状の違和感から話をはじめ、そこから日本における「歩く道」の可能性を考えていきたい。
ここから先の話は、ロングトレイルに関わってきた人には、こころよく感じられない部分があるかもしれない。
ただ、その前にひとつ、はっきりと書いておきたい。いま日本各地でロングトレイルを作っている人たち、維持しようとしている人たちの努力や情熱を、僕は否定したいわけではまったくない。むしろ、その存在がなければ、日本でロングトレイルという言葉がここまで知られることも、このテーマについて議論することもなかったと思っている。
さまざまな障壁や難題があるなかで、地域と向き合い、道をつなぎ、人が歩ける環境を作ってきたこと。その積み重ねには、心から敬意を払いたい。
そのうえで、ここから書くのは、良い悪いを決めるための話ではない。あくまで、僕自身が歩き、聞き、調べ、考えてきたなかでたどり着いたひとつの見解として読んでもらえたらと思っている。
日本のロングトレイルに抱いた違和感
まず、「ロングトレイル」と称するのであれば、前編で書いたように、前提としてロングトレイルは「アメリカ発祥のロングトレイル」であるため、その理解およびアメリカ文化へのリスペクトが欠かせない。
べつにアメリカ礼賛をしたいわけではない。ではどういうことか。たとえば、カリフォルニアロールを江戸前寿司あるいは日本の伝統寿司だと認識されてしまうのは、明らかによろしくない。なぜなら、それは元の文化に対するリスペクトを欠くだけでなく、受け手にとっても誤った理解を植え付けてしまうからだ。
ロングトレイルを問題にしているのは、それが単なるモノや仕組みではなく、歴史や思想、価値観の積み重ねによって育まれてきた「文化」だからである。背景や文脈が誤ったまま共有されてしまえば、その文化が本来持っていた意味や価値そのものが、別のものに置き換わってしまう。

カリフォルニアロールは、寿司をアメリカ風にアレンジした料理である。でも、それを江戸前寿司とは呼ばないし、そう思われてもいない。カリフォルニアロールは、あくまでカリフォルニアロールとして認識されている。ここがとても大切だと僕は思っている。
「なんだ言葉づかいの問題か」と思うだろうか。しかし、言葉ひとつで解釈は大きく変わる。歴史と同様、文化もまた、間違った認識や理解のまま広まってしまえば、いいことはひとつもない。
だからこそ、「ロングトレイル」と名乗るのであれば、成立史をたどった上で、少なくとも押さえておくべき要素は何なのかに、目を向ける必要があると僕は考えている。

とはいえ、アメリカにおいてもロングトレイルに明確な定義があるわけではない。ただ、前編で見てきたような成立史をたどっていくと、「ハイキング・トレイルであること」は、ロングトレイルという文化を形づくってきた、きわめて重要な要素のひとつであったことが見えてくる。
もちろん、それだけを満たせばロングトレイルになる、という話ではない。ただ少なくとも、ロングトレイルをロングトレイルたらしめてきた中核に、ハイキングという行為があったことは事実である。
そしてハイキングとは、単なる移動や歩行ではない。自然の中を、体験そのものを目的として歩く行為である(詳しくは前編にて紹介)。

日本のロングトレイルを考えるとき、しばしば話題にのぼるのが「舗装路をどこまで含めるのか」という問題だ。
ここで誤解してほしくないのは、舗装路を含んではいけない、と言いたいわけではないということだ。日本の国土や土地利用の現実を考えれば、舗装路や市街地を完全に避けることが難しいケースが多いことは、十分に理解している。
ただ、ハイキング・トレイルという観点から考えたとき、もし、あるロングトレイルの全体の半分程度が舗装路で占められていたとしたら、それをハイキング・トレイルと呼べるだろうか、という疑問は残る。これは厳密な基準の話ではないし、何パーセントまでならOKだと言えるものでもない。ただ、感覚的な話として、さすがに舗装路が全体の半分となると、ハイキング・トレイルとは言えないのではないか、というのが正直なところだ。
登山道に置き換えると、よりイメージしやすいだろう。これまで自分が歩いたことのある登山道や、好きな登山道を思い浮かべてみてほしい。もし、そのルートの半分が舗装路だったとしたら、それを登山と呼ぶことに違和感を覚えないだろうか。そして、登山をしたい時にそのルートを選ぶだろうか。ハイキングも同じだと考えている。

もちろん、さまざまな制約のなかで最善を尽くし、歩く体験を成立させようとしている運営者や地域の努力には、心から敬意を払いたい。
ただ、ここで僕が問題にしているのは、舗装路を含むことそのものではなく、それでもなおそれをロングトレイルと呼ぶ必要があるのか、という点である。
ロングトレイルという言葉が一般名称のように聞こえること、くわえて「長い道」という意味で使われるケースがあることもあり、この僕の見解がいまいち腑に落ちないと感じる人もいるだろう。そういう方は、カリフォルニアロールが江戸前寿司として世界に広まってしまう状況を、想像してもらえればいいと思う。
ローカライズのあるべき姿
ここで、ニュージーランドのTe Araroa (テ・アラロア)はどうなんだ? と思う人もいるかもしれない。たしかにテ・アラロアは、アメリカのロングトレイルから着想を得て誕生した、ニュージーランドの長距離ルートである。
しかし重要なのは、彼らがそれをロングトレイルとは名乗っておらず、かつニュージーランドらしさを重要視している点だ。
テ・アラロアは、あえてマオリ語の名称を用い(マオリ語で「長くつづく道」という意味)、同国ならではの歩き道として成立させている。ニュージーランドには、もともとtramping (トランピング)という長く歩く文化があり、その延長線上にテ・アラロアは位置づけられている。
テ・アラロアの公式ウェブサイトより。https://www.teararoa.org.nz/about-te-araroa/
創始者であるGeoff Chapple (ジェフ・チャップル) の発言や関連記事を見ても、そこにあるのはアメリカのロングトレイルのNZ版という姿勢ではなく、「ニュージーランドという国を歩いて体験するための道」という明確な文脈だ。
イギリスにはfootpath (フットパス)があり、フランス周辺にはGR (Grande Randonnée)がある。日本にも、お遍路や熊野古道、旧街道といった、独自の歩く道が存在している。この名前にこそその土地らしさが表れているのだから、ロングトレイルという呼び方にこだわる必要はない気がする。
たしかに、ロングトレイルという言葉には、説明のしやすさや、外部からの注目を集めやすいという利点があることも理解している。観光振興や地域活性の文脈では、その効果を否定するつもりはない。
ただ、日本の多くのロングトレイルが本当に伝えたいのは、アメリカの文化をアレンジした体験ではなく、日本ならではの風土や歴史の中を歩く体験であるはずだ。そうであれば、必ずしもロングトレイルという言葉や、そのカルチャーを借りる必要はないのではないだろうか。

日本で「長く歩く道」や「長く歩く行為」が広まりにくい理由
そもそも日本には、アメリカのような長く歩く道や行為が、定着しにくい環境がある。
ひとつは、地形・土地制度の壁だ。日本の国土の約7割は山地であり、私有地や集落が連続している。そのため、長距離の道を一本の連続した線として設計、実現することが難しい。土地所有者、行政、地域住民との調整は避けられず、その負担はかなり大きい。一貫したコンセプトを保ちつづけること自体が、構造的に難しい。
もうひとつは、成熟した登山文化の存在だ。日本には気軽に行ける身近な里山から生活圏を大きく離れた険しい山域まで、多様な山が全国各地にあり、老若男女さまざまな層の人が自然のなかを歩く(登る)行為を楽しんでいる。歩きつづけることそのものを楽しむ旅、というスタイルはまだまだ一般的とは言えない。

さらに、山以外での歩く行為を考えてみても、日本には街道をはじめ歴史と文化が詰まった魅力的な道がたくさんあり、すでに歩くフィールドが豊富に存在している。
ここで、日本の長距離自然歩道の歴史にも触れておきたい。日本の長距離自然歩道は、1969年に構想され、1974年の東海自然歩道の全線開通を皮切りに、全国へと展開されていった。しかし、残念ながら多くは十分に活用されないまま、次第に廃れていった。

その理由として、道の整備や道標の不足、認知度の低さなど、管理運営面の課題がよく挙げられる。ただ、僕はそれ以上に大きな要因があったと考えている。それは、「なぜそこを歩くのか」という理由が、歩く側にとって見えにくかったことだ。
意義や価値があるから人は道を作るが、意義や価値があるから人は道を歩くわけではない。登山にしろ古道にしろ街道にしろ街歩きにしろ、多くの人がそこを歩くのは、ひとえに楽しいからに他ならない。どれだけ立派な道が整備されていても、歩く楽しさが見いだせなければ、人は歩かない。

日本の「歩く道」の未来に向けた提案
ロングトレイルは、ハイキング・トレイルであるがゆえに、そこを歩く人はハイカーと呼ばれる。しかし現状、日本のロングトレイルと呼ばれる道の中には、舗装路や市街地を多分に含むものも少なくない。
実際、普段ハイキングをしない人でも歩ける区間はたくさんある。それはある意味、日本の長い歩き道が持つ門戸の広さであり、強みでもあるのではないだろうか。
そのポテンシャルを生かさず、「ハイカー」という言葉で線を引いてしまうと、歩く主体を狭めてしまう。それは少し、もったいないようにも感じる。

前述したように、日本で長く歩く道を作り、定着させる上では多くの困難がある。だからと言って、難しいからやらないほうがいい、と思っているわけではない。むしろ、難しくても、作るべき大義があるなら挑戦すべきだと考えている。
ただし目指すべきは、日本版のロングトレイルを増やすことではない。日本独自の地形、歴史、信仰、集落、古道といった要素を生かしながら、「人が歩きたくなる理由」を育てていくことだ。
この問題提起は、誰かを否定するためのものではない。より良い未来を考えるための、ひとつの出発点になればと思っている。
最後に、日本にロングトレイルは必要か?
ロングトレイルである必然性があるところ以外は、必要ない。これが、現時点での僕の見解である。

根津 貴央Takahisa Nezu
ロング・ディスタンス・ハイキングをテーマにした文章を書き続けているライター。2012年にアメリカのロングトレイル『パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)』を歩き、2014年からは仲間とともに『グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)』を踏査するプロジェクト『GHT project』を立ち上げ、毎年ヒマラヤに足を運ぶ。著書に『ロングトレイルはじめました。』(誠文堂新光社)、『TRAIL ANGEL』(TRAILS)がある。2025年4月ネパールに移住。現在、カトマンズ在住。









